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【名護市内小学校×FMやんばる企画】【名護市内小学校×FMやんばる企画】歴史や歩みで卒業生が語る、屋部小中山分校

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名護市には風土や伝統、自然などを生かした教育を進める、魅力ある学校がたくさんあります。中でも、特色のある小学校の中から6校をピックアップして、各学校の魅力をお伝えしていくシリーズ企画。

シリーズ第5回目は「名護市立屋部小学校中山分校」。同校の松田しずか校長、同校の8期卒業生で24代目校長を務めた我喜屋稔さん、同校の51期卒業生で中山区の川野圭輔区長に中山分校の魅力や歴史を教えていただきました。

▼まずは、屋部小学校中山分校の紹介をお願いします。

松田校長:中山分校は1946(昭和21)年4月に『分教場』として認可を受け、同年9月に児童数80人で開校しました。今年80周年を迎えます。現在児童数は、1年生が3人、2年生が2人、3年生が1人、4年生が3人の計9人。職員は教員が3人、用務員が1人です。13人で家庭的であたたかい雰囲気の中、のびのびと学習し学校生活を送っています。

川野区長:分校という制度は、今では分からない人もいるかもしれないですね。本校は屋部小学校です。1年生から4年生まで分校で学び、5年生からは本校の屋部小学校に通う仕組みです。

我喜屋さん:中山区から屋部小までは山を越えて川もあり、距離は約4キロあります。1年生~4年生の児童は歩いて通うのが大変です。そこで地域で育てようと設立されたのが中山分校です。

▼今年創立80周年とのことですが、中山分校のこれまでの歩みや歴史について教えてください。

我喜屋さん:終戦が1945(昭和20)年、中山分校が認可を受けたのが翌年なので、戦後間もない頃に設立されています。中山区としてはもっと前から、分校が必要だという話は出ていたと聞いています。中山の地域も例外ではなく戦争の影響を受け、畑も家もなにもない壊滅状態からの設立だったようです。

川野区長:ほとんど食べものとかが無い状態から、子どもたちのために学校を作ろうと、区民が一致団結して設立されたんです。

松田校長:今回「中山分校創立50周年記念誌」を改めて読んだのですが、設立にあたっては、分校の土地の無償提供だったり、区民の労働力だったり地域の人たちの協力が記録に残っていました。地域の人たちの中山分校への気持ちを感じました。

▼我喜屋さんは8期の卒業生とのことですが、在学中はどのような様子でしたか?

我喜屋さん:児童数は24人でした。今と同じ複式学級で教員は2人。先生が1年生を見ているときには、2年生は自習時間になる。3・4年生も同様だったので、自習時間は上級生が下級生の勉強を教えたりと、児童間も協力し合っていてとてもよかったことを覚えています。

松田校長:当時も校長や教頭はおらず、2人で20数人を見ていたんですよね。

▼今と昔と比べてみて、今の中山分校の様子はどうですか?

川野区長:僕は51期卒なのですが、当時も今も、自然豊かなところは変わらないなと思います。校舎の玄関に、昔の子どもたちが描いた地域周辺マップがあるのですが、植物や動物、昆虫などたくさんの自然が描かれていて、当時の子どもたちもこの自然を通して様々な体験をして学んだのだなと思います。

最近、子どもたちと保護者の方から聞いた話によると、なんと音楽室に沖縄県版レッドデータブックで準絶滅危惧種に指定されている「リュウキュウアカショウビン」が迷い込んできたそうです。そのくらい自然と近い環境なんですね。

我喜屋さん:鳥の声は聞こえるし、四季折々の花々は見られるし、大自然の中に校舎があるというところは、当時から変わらない、自慢のひとつですね。

▼「分校」だからこその良さがありますね。

松田校長:これまでの歩みとしても、中山区民の方は学校や教育をとても大事にしてくださっています。本校と分校では人数の差が大きいですが、大人数が苦手な児童が本校からあえて分校に通っているケースもあり、少人数だからこそ「ここだったら頑張れる」という場所になれているのかなと思います。

授業は、体育は1年生から4年生まで合同で行うなど、先生も教育課程をいろいろ工夫して、授業しています。中山区民や先生の愛にあふれた中山分校を、見に来ていただけたらと思います。

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